江戸の初めの朝廷大乱交パーティ事件とは!?

昭和20年代の初めのわが国では「ベビーブーム」が起こりました。第二次世界大戦が終わり太平の世の中となって安らかな生活が戻ると、日本中の至るところで皆がセックスするようになったからです。戦時中には家族が戦争に行っていたり、戦いの行方が気になったりしてなかなか性欲が起こらなかった人々が、終戦による解放感から男も女も老いも若きも、ベッドで励み始めたのです。

1年間に生まれる子供の数は現代では100万人程度ですが、昭和20年代には200万人を超えています。単純に計算すると、今の倍の性行為が行われていたとも考えられますが、性行為1回で妊娠するわけではありませんので、現代の何倍もの回数が行われていたのかも知れません。

戦争が終わると人々がセックスに夢中になるというのは、この時が初めてではありません。歴史的に見れば、終戦と性交・妊娠とは密接な関係がありました。長く「戦時」が続いた16世紀後半、戦国時代から関ヶ原の戦いの後には、江戸時代という天下泰平が訪れます。この時、日本中の性欲が大爆発したのです。新しい街・江戸には幕府公認の売春街が誕生し、江戸に流入してきた男たちの性欲を毎日吸収し、巨大化していきます。そして、京都の朝廷においても、気の緩みから、平和を皆の身体で祝おうとする者たちが現れました。

そういう時代に起きたのが、猪熊教利(いのくまのりとし)らによる、大乱交パーティ事件です。一般に「猪熊事件」と呼ばれていますが、公家数名と朝廷の女官たちが一同に会して、「やりまくる」という不祥事を起こしました。現代に例えれば、首相秘書や補佐官たちが女性官僚たちと官邸内で乱交するようなもの。大問題となって、猪熊教利は死罪となりました。

光源氏の生まれ変わりと呼ばれた男!?

猪熊教利は、徳川家康の取り立てにより、天皇近臣である内々衆のひとりとして務めていましたが、芸事に長け朝廷周りのイベントでも重宝がられた逸材です。おまけに、「光源氏の生まれ変わり」と言われるほどの美男子で、ファッションセンスにも優れていました。教利の髪型や帯の結びかたを、京都中の若者たちが真似したほどで、その形は「猪熊様」(いのくまよう)と名付けられたほどです。

当然のことながら女性たちにはモテモテで、親しくなった女官を次々と食べてしまう、今流の表現なら「ヤリチン」として名をはせました。教利と親しくなれば「やり捨て」されると分かっていても、「1度でいいから抱かれたい」という女性が後を絶たちません。単に見た目が良いだけでなく、セックステクニックにおいても卓越した技を持っていたのでしょう。

皆でやろう、と誘ってみた!?

教利の周りには、彼にあやかり「おこぼれ」をもらおうとする男たちが寄り集まってきます。彼が「やり捨て」した女官をもらい受けるのです。京都では、教利の悪評判が知れわたりますが、彼はお構い無し。次第にエスカレートして、とうとう乱交へと発展しました。選んだのは、天皇の「お手つき」の女官を含む5名の美女と、「やり仲間」の公家7人。

一晩中の乱痴気騒ぎを起こします。当時は避妊などしませんから、皆、 生挿入の中出しです。何度もこうしたパーティを繰り返すうちに世間でも評判となり、乱交三昧は将軍の知るところとなりました。結果、教利は捕らえられ死刑に処されました。

戦乱の世が続いたあとには皆の心が緩みます。平安の中で心置きなくセックスするのです。